地元京都人でも全部の山鉾の名前を知っている方は
少ないように思われます。
更に夫々の山鉾の由来や成り立ちなどを知る方は
もっと少ないのではないでしょうか。
2回に分けて山鉾の概要について
ご案内をさせて頂きたいと思います。
休み山(事情や大火で巡行していない山鉾)を除くと
現在巡行しているのは、鉾7基と山25基の合計32基です。
【 鉾 7基 】
◇長刀鉾(なぎなたぼこ)
くじとらずの名があるように、山鉾巡行の先頭を受け持つ鉾。
命名は、鉾のてっぺんを飾った三条小鍛冶宗近作の大長刀による。
宗近が娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したが、
鎌倉期にある武人が愛用したが何かと不思議が起こり、
返納したという。1522年に疫病が流行し、
神託で長刀鉾町で飾ったところ、疫病は退散した。
創建は、1441年の説がある。真木は全長20メートル。
現在は稚児が乗る唯一の鉾である。
◇函谷鉾(かんこぼこ)
中国古代史話孟嘗君の故事に基づくと謂われる。
戦国時代斉の孟嘗君は秦の昭王に招かれ宰相に重用された。
しかし讒言によって咸陽を脱出して、函谷関まで逃げたが、
関の門は鶏が鳴かねば開かない。
配下が鶏の鳴き声をまねたところあたりの鶏が和して
刻をつくったので見事通り抜けたという。
真木は22メートル。鉾頭に三角形の白麻を張り
先頭に三日月が上向きにとりつけられる。
◇鶏鉾(にわとりぼこ)
中国古代の伝説「諫鼓」天の岩戸の永世の
長鳴鳥の故事にちなむとも謂われる。
諫鼓は、暦を制定した伝説の聖天子・尭帝が、
宮廷の外に太鼓をすえ、政治に不満があれば叩かせ
木を立てて、訴えを書かした。世は治まり、
太鼓は苔を生じて鶏が巣をつくったという。
鉾頭は、紅白を互い違いに巻いた三角枠で
なかに同の円板が挟まれる。3つの角には
紺色の苧束の房がつけられる。
中ほどに舟を担いだ人形が飾られる。
◇菊水鉾(きくすいぼこ)
謡曲「菊慈童」から着想された鉾。魏の文帝の勅使が
薬水を訪ねて山に入ったところ少年に出会う。
聞けば、少年は700年前に王の枕を誤って
またいだのが原因で都を追われた。以後普門品の
偈を甘菊の葉に記しておいたところ露が滴り
この水を飲んで不老長生したという。
慈童は、この薬水を勅使に献じた。昭和28年に復興。
鉾頭には天に向いた16菊。
この鉾に限り「菊水」と篆書が掘り出した額がつく。
◇月鉾(つきほこ)
古事記によれば、伊弉諾尊が黄泉の国から戻り
禊祓いをされたとき、左眼を洗って天照大神
右眼を洗って月読尊、このあと鼻を洗って素戔鳴尊を生んだ。
月読尊は夜を支配した神だが水徳の神でもあり
月鉾は、この故事に由来する。鉾頭に横40センチ
上下24センチの金色の三日月。
真木の中ほどに天王様を飾った天王台の下には
籠製の船が真木を貫いてとり付けられる。
元治元年の大火にもわずかに真木を失っただけだった。
◇放下鉾(ほうかぼこ)
鉾の名は真木のなかほどの天王座に放下僧の像を祀るのに由来する。
鉾頭は日・月・星三光が下界を照らす形を示し
その型が洲浜に似ているので別名「すはま鉾」とも呼ばれる。
かつては長刀鉾と同様生稚児であったが
昭和4年以降稚児人形にかえられている。
稚児人形は久邇宮多嘉王殿下より三光丸と命名せられ巡行の折には
稚児と同様鉾の上で稚児舞いが出来る様に作られている。
◇船鉾(ふねぼこ)
『日本書紀』の神功皇后の新羅出船に由来する。
屋形内に飾られた神功皇后の人形は面を着け
頭に天冠を頂き紺金襴の大袖に
緋の大口、緋縅の大鎧を付けている。
応仁天皇を生んだゆかりから御神体に
晒を巻いて置き巡行後に安産祈願の御腹帯として
授与する習慣がある。現在の船鉾は宝暦年間に計画され
天保年間に完成。船頭に鷁(げき)と呼ばれる想像上の瑞鳥を飾る。
高さ1.3メートル、両翼端2.7メートル。
【 山 10基 】
◇岩戸山(いわとやま)
『古事記』『日本書紀』に記される「国生み」と「天の岩戸」の
神話を故事にもつ曳き山。「天の岩戸」は素戔鳴尊の乱暴に
天照大神が岩戸に隠れられたため天地は常闇となり
八百万神は安の河原に集まって対策を練り常世の国の尾鳴鳥を鳴かせ
鏡を鋳造し500個の勾玉をつくり天香山の榊を立て天鈿女命が舞った伝承。
屋形内に、伊弉諾尊、天照大神、手力男命の3体の人形が飾られる。
◇保昌山(ほうしょうやま)
旧名に「花ぬす人山」という。平井保昌は藤原大納言方の孫で
致方の子で武勇にすぐれ和歌も堪(たん)能であった。
妻は和泉式部。恋した女官から紫宸殿前の梅を手折ってほしいと
頼まれた保昌が首尾よく一枝を得た。しかし北面の武士に発見され
射かけられた矢が頭をかすめ保昌はほうほうの態で逃げ帰ったという。
盗難除け、縁結びのお守りが授与される。
◇孟宗山(もうそうやま)
中国・24孝の1人孟宗は、母親が病気になったため
好物のたけのこを求めて竹林を歩きまわったが寒の季節で1本もない。
疲れて座り込んでしまったとき、筍が出て母親は元気を回復した話が由来。
町名が笋(たかんな=たけのこの意味)町というのもこれに由来する。
白綴地に雄渾な筆致で孟宗竹林が描かれた見送りは、竹内栖鳳の筆。
極彩 色が多い山鉾のなかで、墨一色が異彩を放っている。
◇占出山(うらでやま)
釣り竿を持った人形は、神功皇后の姿をかたどっている。
九州・肥前の川で鮎を釣って戦勝を占った伝説が由来。
この山には「あいわい山」の別名が明治まで語られていたが
町衆に人気のあった山であったことをうかがわせる。
色鮮やかな日本三景を描いた胴掛けが特徴。
◇山伏山(やまぶしやま)
山に飾る御神体が山伏の姿をしているのでこの名前がある。
前の祭りでは一番北の山。役行者山と同様、
当時民間信仰として人気のあった修験道・山伏から着想された。
正面の水引は雲中の竜、青海波と麒麟を精緻な刺しゅうで描いた
中国からもたらされた豪華なもの。
見送りも中国・明時代のものとされる。
◇霰天神山(あられてんじんやま)
永正年間京都が大火にあった際、急に霰が降り
たちまち猛火は鎮火したが霰とともに小さな天神像が降りてきた。
そんな由来から、火よけの神様として祀られたのがおこり。
霊験はあらたかで多くの山鉾が焼けた天明、元治の大火にも
この山だけは残り、町の誇りになっている。
「雷(らい)よけ火よけのお守は、これより出ます…」。
宵山に子供たちが歌いながらお守授与の受け付けをする。
檜皮葺きの立派な社殿が山に乗る。
◇郭巨山(かっきょやま)
山には屋根がないのが普通だがこの山は日覆障子を乗せている。
金地彩色法相華文の板絵として他の山にない古い形式を残している。
名前の由来は中国の史話にある貧しくて母と子を養えない郭巨が
思い余って子を山に捨てようしたとき土の中から金の釜が現れ
母に孝養を尽くした話による。
人形は鍬を持つ郭巨と紅白の牡丹の花を持つ童子の2体。
◇伯牙山(はくがやま)
戦後に町会所が無くなったため綾小路に面した旧家・杉本家の表の間の
格子を外し、お飾り場にしている。琴を前に、斧をもった人形は
中国・晋時代の琴の名手・伯牙。怒りの目、紅潮した両頬は
友人の訃報を聞き悲しみに打ち震えながら
まさに琴を打ち破らんとしている様を表す。
明治になり多くの山が名前を改めさせられているが
この山も「琴破(ことわり)山」から改称した記録がある。
◇芦刈山(あしかりやま)
御神体、衣装ともに山鉾のなかでも屈指の古さを誇る。
人形のかしらには、天文6年の銘が。また小袖は16世紀の作とみられ
重要文化財に指定されている。もっとも現在の衣装は最近の作。
謡曲「芦刈」は、摂津の国・難波にすむ夫婦は貧乏が原因で別れ
妻は都へ出て宮仕えするが夫が気掛かりで探したところ
落ちぶれて芦を売る夫を見つけると言う話。
山の正面 、側面に芦の造花が飾られる。
◇油天神山(あぶらてんじんやま)
町名(風早町)の由来であるお公家さん・風早家の屋敷があり
この屋敷に祀られていた天神=菅原道真を祀ったという言い伝えがある。
山は立派な朱塗りの鳥居が特徴だ。天神さんと関係深いのが梅の花。
松と一緒に立てられた紅梅が、華やかな雰囲気をかもしだす。
見送りの毛綴(けつづれ)が名高いが、山所在地近くで生まれた
故梅原龍三郎画伯の富士山の絵をもとにした綴になっている。
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